平原諸州への日本人移民事始め
初めて現在のカナダに定住し名前が記録されている日本人は、1877年にブリティッシュコロンビア(B.C.)州に到着した永野萬蔵氏(漁師、その後商店主を努めた後帰国)です。B.C.州には、彼の名を冠したマンゾー・ナガノ山(Mount Manzo Nagano。標高1,962m)があります。
1900年代以降は反アジア感情が高まりますが、農業、鉱業などで労働力を必要としていた平原諸州では、アジア系排斥の動きは比較的少なかったと言われています。1911年のカナダ国勢調査によれば、カナダ全体の日本人人口は9,021名。うち8,587名はB.C.州に住み、アルバータ州在住は247名、サスカチュワン州は57名、マニトバ州は5名でした。
1.アルバータ州(州への昇格は1905年) アルバータ州では、(1)1900年代初頭に到着した日本人移民は、主に炭鉱、鉄道建設、甜菜産業で働き、その一部が定住しました。ホテルのボーイとして働いた人たちもいます。(2)1942年夏以降は、約3千名の日系人がB.C.州を追われアルバータ州に到着し、甜菜農場で働きました(B.C.州の自宅を追われた日系人の総数は約2.1万名)。(3)第二次世界大戦後、日系人はアルバータの農業に大きく貢献しましたが、多くの二世、三世は地方を離れ都市部に移動しています。
(カルガリー及びその近郊)
記録に残る最初のアルバータ州への日本人入植者は、宇治茶の製造・販売で財を築いた永谷武右衛門家の永谷武右衛門(本名:義一(よしかず))氏です。彼は、1907年、カナディアンパシフィック鉄道がカルガリー近郊で開発した灌漑地の一部を購入し、1908年には、同志の大槻幸之助氏がチードル、インヴァーレイクの辺りに農場を開設しました。(残念ながら、最終的には失敗。)
カルガリー市内では、桑原佐太郎氏と北川源蔵氏が1922年に開業した「Nippon Bazaar」が絹布類を中心に直輸入の日本商品を扱って利益をあげました。この店は、「Nippon Silk」、「Silk-O-Lina」と名前を変え、イノウエシゲジロウ氏が加わった1936年にはエドモントン、リジャイナ、バンクーバーにも店を構えるほど発展しています。(バンクーバー店は1942年閉鎖。カルガリー店は1989年に閉店)。
右:赤枠内が昔の「Silk-O-Lina」
(元は、1903年開店のカルガリー製粉会社保有の高級商店)。
右端写真は、Fort Calgary内にある「Silk-O-Lina」に係る展示。
南アルバータのレイモンド(右地図中の赤印)とその周辺は、カルガリー付近と並んで平原州で日本人が最も早く定住した地域です。1904年に日本人移民が到着し始め、1942年以降のB.C.州での日系人強制収容・移住により、同地域の日系コミュニティーは劇的に拡大しました。
また、今はレスブリッジ市内北西の街区となっているハーディーヴィルには、1909年以降、炭鉱あるいは鉄道建設労働者として来加した沖縄からの移民が居住するようになりました。
1940年代初頭、南アルバータには約550名の日系人がいたとされています。
レイモンドでは岩浅享敦(こうじゅん)氏が、レスブリッジではハリー・ヒロナカ(廣中與一)氏(日加友好日本庭園の表記では「弘中」)が、農業における成功者として知られています。(ハリー氏の子息ロバート・ヒロナカ氏は、河村ユウテツ住職等とともに日加友好日本庭園の実現に貢献。元・レスブリッジ大学学長。2012年にはアルバータ最高勲章を受章。)
(元はモルモン教寺院) |
ガルト第6炭鉱跡 |
(エドモントンとその周辺)
エドモントンで正式に記録されている最初の日本人は、1912年に「サムの理髪店」を経営していた中村杉蔵氏です。1910年頃エドモントン地域には、季節労働者を含めて130名以上の日系人が居住していました。
エドモントン近郊のメイブリッジ=オパール地域(右地図中の赤印)には、20世紀初めに英国、ウクライナ、ポーランドからの移民が入植していましたが、1919年、エドモントン市内で理髪店を経営していた木村豊松夫婦、続いて他の7家族が入植しました。木村豊松氏の没後、所有地内の浅い湖がキムラ・レイクと呼ばれていましたが、これは1984年に公式名称となっています。
右:キムラ・レイク |
(付記)1962年のカナダの法令改正後、アルバータ州は日本人の移住地の一つとして期待され、レスブリッジを中心とする南部アルバータには、海外移住事業団(JEMIS。JICAの設立母体の一つ)、国際協力事業団(JICA)の斡旋で1969年以降1975年まで毎年20-50名の若者が農業従事のため移住しました。ただし、当初期待されたほどには伸びなかったそうです。
2.サスカチュワン州(州への昇格は1905年)
初めてサスカチュワン州に定住した日本人は、1910 年あるいは 11年のニシムラトメキチ氏とされています。彼は、1898年に家族とともに来加、その後米ノースダコタ州で過ごした後、サスカチュワン州アンテロープ(右地図中の黄印)に定住しました。
第二次世界大戦前からのサスカチュワン州における指導的日本人としては、1922年に桑原佐太郎氏とともにカルガリーで「Nippon Bazaar」を開業した北川源蔵氏が知られています。彼は、1929年にサスカチュワン州リジャイナで「Nippon Silk」を開店し、その後さらに3店舗を構えました。1973年に日系人として初めてカナダ最高勲章the Order of Canadaを受章。1976年にリジャイナで逝去されています。
3.マニトバ州(1870年に州に昇格。ただし、当時の領域は今に比べかなり狭いものでした。)
初めてマニトバ州に移住した日本人は、1906年に来訪したウメハラテルキチ氏とされています。ただし、その後彼はオンタリオ州に移りました。
1941年の国勢調査によれば、マニトバ州には42名の日本人が住んでいました(うち21名はウィニペグ在住)。小さいながらも、日本の伝統を守り絆の強いコミュニティーだったとされています。1942年には、B.C.州を追われた日系人がマニトバ州にもやって来ました。多くの家族はレッドリバー渓谷地域に定住し、甜菜農場で厳しい労働に従事したそうです。
上記地図中、ポーティジ・ラ・プレーリーからセルカークにかけて、 及びオルトナからスタインバッハにかけての地域です。 |
最後になりますが、この記事を書くにあたっては、当館所管各州等の日系人組織ホームページや、日本カナダ学会の研究成果等様々な資料を参照しました。関係各位に対し、この場を借りて心から感謝申し上げます。
また、各日系人組織のホームページには様々な情報が掲載されています。カナダにおける日系人の歴史や現在の活動に関心のある方は、是非一度ご覧になることをお勧めします。
- (全カナダ)National Association of Japanese Canadian (NAJC)
- (アルバータ州)Calgary Japanese Community Association (CJCA)
- (アルバータ州)Edmonton Japanese Community Association (EJCA)
- (アルバータ州)The Nikkei Cultural Society of Lethbridge and Area (NCS)
- (サスカチュワン州)Regina Japanese Cultural Club (RJCC)
- (サスカチュワン州)Saskatoon Japanese Association (SJA)
- (マニトバ州)Japanese Canadian Cultural Association of Manitoba INC.(JCAM)