日本とカナダの関係が最も厳しかった時代(決して忘れてはならない歴史)
1.日系カナダ人強制収容とリドレス合意
第二次世界大戦、特に、1941年12月7日(日本時間12月8日)に行われた日本軍による真珠湾攻撃は、日本とカナダの関係、そして日系カナダ人の生活にも大きな影響を及ぼしました。(日本軍は、真珠湾と同時刻に香港も攻撃。)
1942年2月、戦時措置法に基づき、日系カナダ人は太平洋岸から100マイルの地域から退去するよう求められます。1942年夏までに西海岸を去った日系人は約21,000名。過半数はブリティッシュコロンビア州内陸部の強制収容キャンプに移りますが、約3,500名は同州外の甜菜農場で働くことを選択し、約3,000名は自己負担により集団で西海岸を離れ他州の「自助プロジェクト」に定住するこがを認められました。
その後、1970年代になると、日系カナダ人は連邦政府に対し戦時措置に対する謝罪を求めるようになり、全カナダ日系人協会 (NAJC)はアート・カズミ・ミキ会長(在任1982-1992年)を中心粘り強く要求を続けます。そして、1984年に発足したブライアン・マルルーニー政権との交渉により、1988年9月に合意(リドレス合意)を達成。マルルーニー首相は、議会において戦時中の日系カナダ人の扱いにつき公式に謝罪しました。ウィニペグのカナダ人権博物館は、この時の経緯について重要な展示(常設。下の写真)を行っています。
マルルーニー首相 |
なお、2022年は日系人強制収容が始まってから80周年の年であり、当館管轄諸州の日系人会でも記念式典が開催されました。
戦時措置によりブリティッシュコロンビア州からアルバータ州南部に移り、甜菜畑で厳しい労働に従事した家族の話は、2014年の出版時にベストセラーなり、2018年にCBCのCanada Readsを獲得したマーク・サカモト氏の「FORGIVENESS: A Gift from My Grandparents」に詳しく描かれています。サカモト氏の父方の祖父母一家は、ブリティッシュコロンビア州を去った後、アルバータ州南部コールデールの甜菜農場で働きました。この物語は、劇作家金川弘敦氏が舞台化し、2023年初めにバンクーバーとカルガリーで上演されています。
日系人の強制収容に抗議した方をもう一人紹介しましょう。
ゴードン・キヨシ・ヒラバヤシ(平林潔)氏(1918-2012)。彼は米国の社会学者であり、第二次大戦中の在米日系人強制収容に対する一貫した抗議で良く知られています。彼は、1970年から1975年までアルバータ大学社会学部長を努め、引退の年である1983年まで教鞭を執っており、アルバータ州にも縁の深い方です。(右写真は、エドモントン日本文化協会(EJCA)が作成したヒラバヤシ氏を紹介するパネル。2022年秋、当館で展示した際に撮影。)
2.カナダ軍人として第二次世界大戦を戦った日系カナダ人
1939年9月10日にカナダがドイツに対し宣戦布告を行った頃には、カナダ人としての忠誠心を示すべくかなりの数の日系人カナダ人(二世)が軍に入隊していたようです。しかし、対日開戦後彼らの多くはカナダ国内での後方任務に充てられました。
それでも、アルバータ州南部レイモンドに生まれたトオル・イワアサ氏は、第二次大戦初期の入隊後、5年間王室カナダ工兵隊に所属し、ノルマンディー、ベルギー、オランダ、ドイツにおける作戦に参加されたそうです(1994年、レイモンドの自己の農場にて逝去)。名前から判断すると、トオル・イワアサ氏は連載第2回目に言及した岩浅亨敦(こうじゅん)氏のご子息ではないかと推測されます。
イワアサ氏の口述記録によれば、レイモンド日系コミュニティーからは、イワアサ氏の他に、ジョー・タカハシ氏、シン・タカハシ氏、トオル・タカハシ氏、ハリー・ヒガ氏等も入隊され、ヒガ氏はアジア方面に派遣されたとのことです。
3.日本軍とカナダ軍の戦い
詳しく調べたわけではないですが、カナダの方々にとって、カナダ軍と日本軍の戦いと聞いてまず思い浮かぶのは香港での戦いではないでしょうか? この時の様子は、先に挙げたマーク・サカモト氏の「FORGIVENESS」にも詳しく叙述されています。サカモト氏の母方の祖父は香港戦に際し日本軍の捕虜となり、新潟の戦争捕虜収容所で終戦までの時期を過ごされています。
ここからは、カルガリーの博物館で見ることのできる、第二次大戦中の日本軍とカナダ軍に係わる幾つかの展示をご紹介しましょう。
まずは、日本軍の「ふ号」兵器(通称「風船爆弾」)。これは、第二次大戦中に日本軍が開発し実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器です。日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下で北米空襲を企図しました。右上の写真は、カルガリーのハンガー・フライト博物館(カルガリー国際空港に隣接)に展示されている実物です。また、同じくカルガリーの軍事博物館にも、風船爆弾について説明するパネル(右の写真)が置かれています。
ちなみに、 第二次世界大戦中現在のカルガリー国際空港は、カナダ国内各地に置かれた英加豪NZによる「英連邦航空訓練計画」関連施設(最終的に総数13万人強のエアクルーを育成)の中でも主要な施設の一つでした。右の写真は、ハンガー・フライト博物館の隣にある、同計画を記念する碑、及び4カ国の国旗・空軍旗です。
右の写真は、カルガリーの軍事博物館に展示されているもの。1945年5月4日、英空母「フォーミダブル」は、沖縄県先島諸島付近で日本の零戦による神風攻撃を受けました。同空母は応急修理の結果再度航空機の離着艦が可能となり、5月9日にも零戦による神風攻撃を受けましたが、その時も生き残っています。
この空母には、艦載機乗りとしてロバート・ハンプトン・グレイ大尉(ブリティッシュコロンビア州トレイル生まれ。1940年にカルガリーで入隊)が乗艦していました。グレイ大尉は、1945年7月中旬の日本本土空襲に際し日本の駆逐艦を直撃弾により撃沈。8月9日には、宮城県女川湾における対艦攻撃を指揮し、乗機F4Uコルセアの被弾にも拘わらず海防艦「天草」を直撃弾により撃沈する(右写真)という戦果を挙げました。ただし、乗機は墜落し、グレイ大尉は戦死されています。グレイ大尉は第二次大戦における最後のカナダ人戦死者であり、女川町地域医療センター敷地内には、同大尉の記念碑が設置されています。
4.我々が忘れてはならないこと
今日でも、世界中で戦争・紛争、あるいは差別は後を絶ちません。そして、その根絶は夢の中でしか起こりえないように思えるかもしれません。しかし、日本とカナダの歴史を振り返ってみれば、かつて敵同士だった国が友達になることは可能であり、また、それぞれの国で出自の違う人が互いを尊敬しつつ共存することも可能だということが分かるはずです。
ここカルガリーでも、毎年夏、8月6日の広島原爆記念日の頃になると、日本人が中心となって企画される平和集会に多くのカルガリー市民が集って下さいます(右写真。於オリンピック・プラザ)。私たち日本人は、こういった時に灯籠を流し、亡くなった方々を追悼しますが、ありがたいことに、ここカルガリーでも多くの方が同じように灯籠を水に浮かべて下さいます。
歴史から学び、将来を少しでも良いものにする。それこそが、我々が背負っている大事な責務ではないでしょうか?