新渡戸稲造氏の最後のメッセージ(1933年8月14日。アルバータ州バンフにて)
令和5年8月14日
昨年9月、このホームページ上で新渡戸稲造氏のことを紹介しました。
https://www.calgary.ca.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_00603.html
1862年9月1日、岩手の盛岡に生まれた彼は、著書「武士道」で知られた文筆家であり、また、1920-1927年に国際連盟の事務次長を務めた偉大な外交官でもあります。
今日は、新渡戸稲造氏が生前最後に行った仕事について触れたいと思います。
1933年、日本は国際連盟からの脱退を表明しましたが、その年の秋に彼は、日本代表団の団長として、アルバータ州バンフで開催された第5回太平洋問題調査会議に出席しました。これが彼の最後の仕事となりました。(彼は、その年の10月15日、B.C.州ビクトリアでの手術の後、71歳で亡くなりました。)
1933年8月14日、この会議初日の夕食会で新渡戸稲造氏は演説します。今からちょうど90年前のことです。新渡戸氏は、この演説の草稿に何度も手を入れたと言われています。日本を取り巻く状況が悪くなる中、それだけこの会議への出席に思い入れがあったのでしょう。彼が実際に述べた発言内容が残されていますので、その最後の一節を紹介します。
“Is it too much to hope then that in the intimate contact of the nationals from all over the earth the day will gradually come when not passion but reason, when not self-interest but justice will become the arbiter of races and nations?”
(仮訳)地球上全ての諸国民の親密な交流により、激情ではなく理性が、私利私欲ではなく正義が各人種・国民の調停者となる日が徐々に訪れると考えるのは望みすぎだろうか。
新渡戸稲造氏は、帝国大学(現在の東京大学)入試で志望動機を聞かれ、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」と応えたそうです。1933年の会議で彼のこの願いは叶いませんでしたが、死の寸前まで「太平洋の橋」であろうとした彼の努力は、今でも賞賛に値すると思います。
https://www.calgary.ca.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_00603.html
1862年9月1日、岩手の盛岡に生まれた彼は、著書「武士道」で知られた文筆家であり、また、1920-1927年に国際連盟の事務次長を務めた偉大な外交官でもあります。
今日は、新渡戸稲造氏が生前最後に行った仕事について触れたいと思います。
1933年、日本は国際連盟からの脱退を表明しましたが、その年の秋に彼は、日本代表団の団長として、アルバータ州バンフで開催された第5回太平洋問題調査会議に出席しました。これが彼の最後の仕事となりました。(彼は、その年の10月15日、B.C.州ビクトリアでの手術の後、71歳で亡くなりました。)
1933年8月14日、この会議初日の夕食会で新渡戸稲造氏は演説します。今からちょうど90年前のことです。新渡戸氏は、この演説の草稿に何度も手を入れたと言われています。日本を取り巻く状況が悪くなる中、それだけこの会議への出席に思い入れがあったのでしょう。彼が実際に述べた発言内容が残されていますので、その最後の一節を紹介します。
“Is it too much to hope then that in the intimate contact of the nationals from all over the earth the day will gradually come when not passion but reason, when not self-interest but justice will become the arbiter of races and nations?”
(仮訳)地球上全ての諸国民の親密な交流により、激情ではなく理性が、私利私欲ではなく正義が各人種・国民の調停者となる日が徐々に訪れると考えるのは望みすぎだろうか。
新渡戸稲造氏は、帝国大学(現在の東京大学)入試で志望動機を聞かれ、「願わくは、われ太平洋の橋とならん」と応えたそうです。1933年の会議で彼のこの願いは叶いませんでしたが、死の寸前まで「太平洋の橋」であろうとした彼の努力は、今でも賞賛に値すると思います。