戦後の日本と平原諸州の関係

令和5年11月27日

1.概説

 第二次世界大戦以前、日本は西カナダでは、バンクーバーに領事館を置いていました。当時の領事が平原諸州を視察し、アルバータ州首相等に面会した記録も残されています。同館館員は1942年5月に戦争のため引揚げますが、1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効を受けて、同年5月に再度バンクーバーに領事が着任しました(1963年6月、総領事館に昇格)。

 その後、1956年12月に、平原諸州初の領事館として、マニトバ州ウィニペグに領事館が開設されます(1967年7月、総領事館に昇格。1992年12月閉鎖)。当時ウィニペグは平原諸州最大の都市(人口41万人)で、カナダ全体でも、モントリオール、トロント、バンクーバーに次ぐ4番目の規模でした。開設に際しては、平原諸州の農業(特に、ウィニペグはカナダ小麦の集散地であること)、アルバータ州の石油・天然ガスの重要性が考慮されています。(右写真は、サスカチュワン州リジャイナ近郊の穀物エレベーター。右下写真は、サンコー・エナジー社のエドモントン製油所。)





 1960年代に入ると、日本とアルバータ州の関係が大きく発展します。この頃カナダでは鉄道等での石炭利用が姿を消し多くの炭鉱が閉山しますが、高度経済成長のさなかで未だ大量の石炭を必要としていた日本は、1962年にアルバータ州からの石炭輸入を開始。そして、大型代表団の往来が始まります。


  • 1963年10月: アレン・ラッセル・パトリック・アルバータ州産業・開発大臣率いる通商使節団が訪日。
  • 1964年10月: 日本の訪加経済使節団(団長:稲山嘉寛八幡製鉄社長)がブリティッシュコロンビア州、平原諸州を中心に6州11都市を訪問。稲山団長は、エドモントンで開催された第3回北方資源会議で講演。
  • 1966年5月: アーネスト・マニング・アルバータ州首相夫妻一行が公賓として訪日。
    これらの流れを受け、1967年3月、アルバータ州エドモントンに領事館が開設されます。
    1971年10月、総領事館に昇格。2005年1月閉鎖。同時に在カルガリー総領事館開設。)
  • 1970年9月: アルバータ州東京事務所開設に際し、ハリー・ストローム州首相が自ら開所式を主催すべく来日。佐藤栄作総理を含む政府経済界要人と会談。
  • 1971年6月: 藤野忠次郎三菱商事社長を団長とする大型経済ミッションがアルバータ州を含むカナダを訪問。
  • 1972年9月: ピーター・ラヒード・アルバータ州首相が、政権発足後初の海外通商ミッションを率いて訪日。
 この間、1966年には、石油資源開発株式会社(JAPEX: Japan Petroleum Exploration Co., Ltd.)がJAPEX Canadaを設立し、アルバータ州内オイルサンドの調査活動を開始します。その後生産実験を経つつ、1978年にはナショナルプロジェクトとしてカナダオイルサンド株式会社(Japan Canada Oil Sands Limited:JACOS)が設立され、アサバスカ地区での共同開発が始まりました。(その後残念ながら、情勢の変化により、2021年にJACOSは同地のオイルサンド生産から撤退しました。)

 日本と平原諸州、特にアルバータ州との関係は、長年国際的なエネルギー動向、そして最近は気候変動対策の影響を受けてきました。しかし最近は、不安定な国際情勢のもと、特に食料安全保障、エネルギー安全保障の観点から、日本にとって諸州の重要性は一層増しています。平原諸州は日本にとって引き続き小麦等穀物の重要な供給元であり、エネルギー関係では、気候温暖化問題への対応の必要性を踏まえ、近年は、例えば日系企業によるアルバータ州における水素・アンモニア生産への関心も高まっています。

2.皇室とアルバータ州

 アルバータ州は皇室と縁が深く、このシリーズの第3回でご紹介したように、それは1925年にアルバータ山に初登頂を果たした日本登山隊の槇有恒(まきゆうこう)隊長が昭和天皇の弟君である秩父宮雍仁(やすひと)殿下とご親交があったことに始まります。

 その後1953年4月には、当時の皇太子明仁殿下(現・上皇陛下)がカナダ経由でエリザベスII世女王陛下戴冠式(同年6月2日。於ウェストミンスター寺院)に出席された際、カルガリーにお立ち寄りになりました。この時殿下は市民から大歓迎を受けられ、馬にお乗りになるとともに、7月のカルガリー・スタンピードでは定番とされている白いカウボーイ・ハットをお召しになっています。


 また、このシリーズ初回でご紹介したように、アルバータ州南部レスブリッジにある日加友好日本庭園(右写真)は高松宮家、高円宮家と縁が深く、アルバータ州都エドモントン所在のアルバータ大学は高円宮家と強い繋がりがあります。


3.北海道とアルバータ州

 日本とアルバータ州の関係を語る時、北海道とアルバータ州の関係を抜きに済ますわけにはいきません。北海道とアルバータ州の関係は、北海道の「北方圏構想」推進のため1972年9月に堂垣内尚弘知事が自らを団長として派遣した大規模な北海道カナダ・アラスカ経済文化使節団を嚆矢とし、同年の北海道とアルバータ州間の合意を受け、両地域間で多くの人物交流が始まります。さらに1980年には、エドモントンと札幌それぞれにおいて両者間の姉妹提携調印式が開催されました。

以来、北海道とアルバータ州の各自治体の間では姉妹都市交流が多数行われており、また、カーリングやアイスホッケーの分野における交流は特筆に値します。まずは、アルバータ州モリンビルに生まれ、1980年に北海道に渡り日本初のカーリング指導者となったウォーリー・ウルスリアク氏。また、2013年以降は、カルガリー生まれのジェイムズ・ダグラス・リンド氏の指導によりカーリング日本女子代表チームが力をつけ、2014年の冬季オリンピック・ソチ大会では5位(北海道銀行フォルティウス)、2018年の平昌大会では銅メダル(ロコ・ソラーレ)、2022年の北京大会では銀メダル(ロコ・ソラーレ)を獲得するまでに至っています。なお、2014年から約1年半は、エドモントンのイヨベ・メルケトサジク氏(元JET ALT(岐阜県))が、北海道女子カーリングアカデミーにおいてリンド・コーチの通訳を務めました。

アイスホッケーの分野では、エドモントンのダグ・マッケンジー氏が重要な役割を果たしました。彼は、最後の北海道訪問時に北海道に「マッケンジー友好杯」を贈呈しています。

 なお、これは北海道との関係ではありませんが、1998年冬季オリンピック長野大会に際し日本の男子代表チームが招聘した6名の北米アイスホッケー関係者の中に、ブリティッシュコロンビア州での強制収容を経験した両親を持ちアルバータ州南部コールデールで生まれたスティーヴン・ケン・ツジウラ氏がいます。ツジウラ氏は、1994に当時の日本アイスホッケーリーグ(JIHL)コクドアイスホッケー部に入部。冬季オリンピック長野大会の前年には日本に帰化し日本代表入りし、同大会では副キャプテンを務めています。その後は選手生活からは引退し、4年間日本代表のヘッドコーチを務めました。

4.第15回冬季オリンピック カルガリー競技大会

 1988年2月13日から28日日までカルガリー及び近隣のカナナスキス郡で開催されたこの大会では、スキージャンプでフィンランドのマッチ・ニッカネン選手が大活躍し(右写真はカルガリー西方のオリンピック・スキージャンプ台。背後にカナディアンロッキーが見える)、フィギュアスケート女子シングルでは東独のカタリナ・ヴィット選手が優勝しました。




 カルガリー大会は、冬季オリンピック史上初めてスピードスケート競技が屋内で開催され、公開競技としてカーリングが初めて登場した大会でもあります。日本選手団の旗手は橋本聖子選手、主将は黒岩彰選手でした。フィギュアスケートでは、伊藤みどり選手が当時の女子最高難度レベルのジャンプを連発し、地元メディアでは「flying woman」として紹介されています。伊藤選手は決勝では5位に終わりましたが、ファンからの要望によりエキシビションに登場しました。この大会での日本のメダルは、スピードスケート男子500mにおける黒岩彰選手の銅メダル1個となっています。


なお、この大会前の聖火リレーではカルガリータワーを模したトーチが用いられ、大会期間中はカルガリータワー上部に常時火が点されました。その後も、各オリンピック大会に際してはカルガリータワー上部の点火台に火が点されています。(右上写真は2021年の東京大会開会式の日のもの。)

5.第28回G8カナナスキスサミット

 2002年6月26日と27日の両日、アルバータ州カナナスキス郡において第28回G8カナナスキスサミットが開催されました。



6.東日本大震災

 2011年3月11日に発災した東日本大震災(右写真:宮城県南三陸町防災庁舎)に際しては、被災地に対し当館所管諸州・準州からも暖かい支援の手が差し伸べられました。

当館は、発災から11周年となる2022年3月11日に、日本のアニメ監督である山本寛(ゆたか)氏の参加を得て、オンラインで記念イベントを開催しました(下記URLをご覧ください)。

今回の連載に際し、改めて皆様の当時のご支援に感謝申し上げます。


東日本大震災11周年祈念オンラインイベント | 在カルガリー日本国総領事館 (emb-japan.go.jp)