初期の日本人移民事情についてのお便り

令和6年3月14日
令和5年10月12日、あるカナダの方から、初期の日本人移民事情についてメールを頂きました。このメールは、以前このHP上に掲載した「平原諸州への日本人移民事始め」の関連で、ゴードン及びアン-リー・シュバイツァーの著書「Sakura in Stone: Victoria’s Japanese legacy」を含む、初期の日本人移民事情に係る情報を紹介するものでした。「Sakura in Stone」では、上記記事で紹介した永野萬蔵氏のみならず、19世紀から20世紀初頭にカナダ(現在のブリティッシュコロンビア州)に来訪、あるいは定住した他の日本人にも言及がなされているそうです。



帝国海軍練習艦「筑波」(Wikipediaより)
帝国海軍練習艦「筑波」(Wikipediaより)
同書によれば、(1)難破船の日本人乗組員が、1834年(全カナダ日系人協会(NAJC))のウェブサイトによれば1833年)に現在の米ワシントン州経由でフォートラングリーに、1858年にサンフランシスコ経由でヴィクトリアに到着、(2)1880年には帝国海軍練習艦「筑波」(元・英海軍木造コルベット艦「マラッカ」)がエスキマルト(バンクーバー島南端)に初寄港、1880年代にはヴィクトリアとサンフランシスコ、ハワイ、横浜を結ぶ航路が開設されており、(3)1909年にヴィクトリアを訪れたイシダテ・スミオ氏は、永野萬蔵氏等日本人の活動状況を詳しく調査しています。





1906年(明治39年)に結ばれた 「日本加奈陀間ノ通商ニ関スル条約」英領カナダ側批准書(本批准書の署名者は、当時の英国王エドワード7世。外務省外交史料館所蔵)
1906年(明治39年)に結ばれた 「日本加奈陀間ノ通商ニ関スル条約」英領カナダ側批准書(本批准書の署名者は、当時の英国王エドワード7世。外務省外交史料館所蔵)
ダテ氏は、(1)最初の日本人がいつ(移民として)カナダに来たのかは明確でないが、遅くとも明治10年(1877年)代後半には日本人が(カナダに)到着し始めたようだ、(2)ヴィクトリアで雑貨・日本美術工芸店を経営していた長崎県出身の永野萬蔵氏は、明治10年(1877年)3月にヴィクトリアに到着したと語っていたが、これを裏付ける文書はない、と記しているそうです。例えば、いくつかの英語文書は永野氏が遅くとも1892年にはヴィクトリアにいたことを示しているけれども、本人も1909年の聞き取りで1877年にヴィクトリアにいたとは主張しておらず、1901年国勢調査では、1886年にカナダに移住し、1894年に帰化したと述べたとされています。また、永野萬蔵氏は、その後1923年に帰国しています。

このメールの執筆者は、永野氏のカナダ到着年に係る不確実性を考慮すれば、初期にカナダに移住しフランス人商人チャールズ・ガブリエル氏がヴィクトリアで営んだ「Japanese Bazaar」で働いていた日本人の一人で、英国臣民となり1909年の没後帰化した日本人移民として初めてバンクーバーに骨を埋めたミクニ・キスケ氏(岡山県出身)こそは、最初期の日本からカナダへの移住者としてもっと注目されて然るべきべきではないかと主張されています。





今や、当時のカナダへの日本人の来訪、そして定住等の詳細を調べるのは難しく、また、何をもって「最初の日本人移住」とするのかについての意見も分かれるかもしれません。しかし、現在も、「Sakura in Stone」のように、あの時代に日本からカナダに渡航した、あるいは定住した人々の調査が行われ、このメールの執筆者のようにこうした調査を注視する方が存在するのは喜ばしいことです。誰が日本からカナダへの最初の「移住者」だったにせよ、彼らはその後のカナダの建設、日本とカナダの関係構築に大きな役割を果たしました。当館としては、今後とも多くの方々が、初期の日本とカナダの歴史、人の流れに関心を持ち、歴史に埋もれてしまっている多くの物語を再発見して頂くことを期待しています。

末筆になりますが、今回この記事を書くきっかけを与えて下さったメールの執筆者に、改めて御礼を申し上げます。