19世紀末から20世紀初頭にかけてカナディアンロッキーにやって来た日本人
令和5年10月23日
前回(第2回)は、移民として平原諸州に来られた日本人、及び日系人の方についてお話ししました。今回は、同じ頃(19世紀末から20世紀初頭)に、山に魅せられてカナディアンロッキーに来られた日本人の話を紹介したいと思います。
その前に、カナディアンロッキーのバンフ国立公園を通るカナディアンパシフィック鉄道の建設を指揮し、後に同社の第2代社長を務めたサー・ウィリアム・コーネリアス・ヴァン・ホーンが述べた言葉を紹介しましょう。
「私たちは(カナディアンロッキーの)景色を輸出できないのだから、観光客を輸入しなければならない。」
これにより、日本を含む世界中から、人々がカナディアンロッキーを訪れる時代の幕が開けました。
最初に紹介するのは、以前このホームページで2回取り上げた新渡戸稲造氏。
以前の記事では新渡戸氏の第5回太平洋会議出席(バンフ。1933年)に触れましたが、彼は、1898年にもブリティッシュコロンビア州側のロジャーズ峠を訪問しています。この時は、養子の孝夫(よしお)と一緒でした。この時期、体調を崩していた新渡戸氏は米カリフォルニア州モントレーで静養しており、カナディアンロッキーへの旅は、その頃彼が執筆していた「武士道」の完成にも貢献したと思われます。
登山隊は、山頂にケルン(石積み)を作り、そこに登頂を記した置き手紙と、細川護立(もりたつ)侯爵(旧肥後熊本藩細川家第16代当主)から拝領したピッケルを残しました。23年後の1948年にアルバータ山2度目の登頂を果たした米の登山隊がこれを発見しますが、ピッケルを取り出す際に折れてしまったため、彼らがニューヨークの米登山クラブに持ち帰ったのは全体の4分の3だけです。最終的には、初登頂40周年を記念すべく1965年にアルバータ山に登頂した長野高校山岳部OB隊の5名が残りの取っ手の部分を発見し、アルバータ山初登頂から75周年となる2000年にジャスパーで開催された特別式典において、日本とカナダの登山家達(この時彼らは、アルバータ山記念登山も実施)によりこの二つの部分が接合され(8月)、現在は、日加米が共有する登山の歴史として、恒久的にジャスパー・イエローヘッド博物館に展示されています。
なお、同博物館の展示によれば、日本隊初登頂後何年もの間、地元ではこのピッケルは銀製で、天皇陛下から下賜されたものと言い伝えられていたそうです。
最後に、この方は日本人ではありませんが、この時期にジャスパーを訪れた有名人をもう一人ご紹介しましょう。
サー・アーサー・コナン・ドイル。
あのシャーロック・ホームズ物語の作者です。彼とその家族は、その路線とジャスパーの宣伝を目的とするグランドトランクパシフィック鉄道(現在のカナディアンナショナル鉄道)の招待で、エドモントン経由で1914年夏(第一次大戦開戦の直前)に初めてジャスパーを訪問しました。ジャスパー駅に降り立った彼らは、町を流れるアサバスカ川添いで乗馬を楽しんだり、馬車で近くのピラミッド湖を訪れたりしたそうです。
ジャスパーとその周辺の美しさに魅せられた彼は、1923年に再度家族とともにこの地を訪れ、宿帳に次のような小話を書き残しています。
「ニューヨークの人が天国に来て、その門を通った。聖ペテロが仰った。「あなたは天国を好きになるだろう。」 続いてピッツバーグの人がやって来た。聖ペテロが仰った。「それ(天国)はあなたに大きな変化をもたらすだろう。」 最後に、ジャスパー公園の人がやって来た。聖ペテロは仰った。「残念だが、あなたはがっかりするだろう。」」
(この部分の出典:“THE HISTORY OF JASPER”, Meghan Power著)
その前に、カナディアンロッキーのバンフ国立公園を通るカナディアンパシフィック鉄道の建設を指揮し、後に同社の第2代社長を務めたサー・ウィリアム・コーネリアス・ヴァン・ホーンが述べた言葉を紹介しましょう。
「私たちは(カナディアンロッキーの)景色を輸出できないのだから、観光客を輸入しなければならない。」
これにより、日本を含む世界中から、人々がカナディアンロッキーを訪れる時代の幕が開けました。
以前の記事では新渡戸氏の第5回太平洋会議出席(バンフ。1933年)に触れましたが、彼は、1898年にもブリティッシュコロンビア州側のロジャーズ峠を訪問しています。この時は、養子の孝夫(よしお)と一緒でした。この時期、体調を崩していた新渡戸氏は米カリフォルニア州モントレーで静養しており、カナディアンロッキーへの旅は、その頃彼が執筆していた「武士道」の完成にも貢献したと思われます。
その後、1925年7月には、日本の登山隊が、バンフとジャスパーの間に聳える、カナディアンロッキーで5番目、アルバータ州内で3番目に高いアルバータ山(標高3,619m。右地図中の赤印)に初登頂しました。当時この山は、カナディアンロッキーの中で唯一の未踏峰でした。西海岸のバンクーバーから列車でジャスパーに到着した彼らは、ほぼ垂直に切り立った壁に挑み、7月21日午後7時35分、山頂に到達しています。当時の当地新聞は、高名な日本の登山家達がコロンビア大氷原を探検し、アルバータ山を初制覇した旨報じました。
登山隊は、槇有恒(まきゆうこう)隊長を含む慶応大学義塾山岳会の4名と学習院大学登山部の2名の計6名。3名のスイス人の案内で登頂を果たしました。槇氏は、後に秩父宮雍仁(やすひと)殿下(昭和天皇の弟)の山岳サロンに参加し、日本山岳会(JAC。現・日本山岳・スポーツクライミング協会: JMSCA)設立者・会長)を努めています。
なお、同博物館の展示によれば、日本隊初登頂後何年もの間、地元ではこのピッケルは銀製で、天皇陛下から下賜されたものと言い伝えられていたそうです。
イエローヘッド博物館には、姉妹都市提携10周年を記念して1982年にジャスパーの姉妹都市である箱根町からジャスパー公園商業会議所会頭に寄贈された鱒の剥製(右写真)も展示されています。添え書きによれば、この鱒は、1972年の両者姉妹都市提携に際して箱根町を訪問したジャスパーの友好使節団が芦ノ湖に放流したものだそうです。
最後に、この方は日本人ではありませんが、この時期にジャスパーを訪れた有名人をもう一人ご紹介しましょう。
あのシャーロック・ホームズ物語の作者です。彼とその家族は、その路線とジャスパーの宣伝を目的とするグランドトランクパシフィック鉄道(現在のカナディアンナショナル鉄道)の招待で、エドモントン経由で1914年夏(第一次大戦開戦の直前)に初めてジャスパーを訪問しました。ジャスパー駅に降り立った彼らは、町を流れるアサバスカ川添いで乗馬を楽しんだり、馬車で近くのピラミッド湖を訪れたりしたそうです。
ジャスパーとその周辺の美しさに魅せられた彼は、1923年に再度家族とともにこの地を訪れ、宿帳に次のような小話を書き残しています。
「ニューヨークの人が天国に来て、その門を通った。聖ペテロが仰った。「あなたは天国を好きになるだろう。」 続いてピッツバーグの人がやって来た。聖ペテロが仰った。「それ(天国)はあなたに大きな変化をもたらすだろう。」 最後に、ジャスパー公園の人がやって来た。聖ペテロは仰った。「残念だが、あなたはがっかりするだろう。」」
(この部分の出典:“THE HISTORY OF JASPER”, Meghan Power著)